解禁日になったので実写版「耳をすませば」プレゼン
・プロデューサーは聖司が初恋の人であると公言する所謂「聖司の夢女」である
聖司が好きでずっと耳すまを映画化したいと思っており、今回念願が叶ったという形で映画化された
・聖司をチェリストにしたのは「松坂桃李がチェロケース背負ってイタリアの街並みを歩いてたらカッコいい」からという
松坂桃李にんほったとしか思えないような動機をインタビューで答えている
・雫が初めて書き上げた小説を地球屋のおじいさんに読んでもらうシーンをおじいさんから聖司に変更
聖司の出番を増やすためによりによって一番大事なシーンで見せ場泥棒
ジブリでは人生の大先輩であるおじいさん雫の才能の原石を見出して褒めてくれるからこそ希望が持てるシーンだった
それを同級生である聖司が謎の上から目線で褒めてそれに雫が喜ぶという非常に薄っぺらいシーンになってしまった
また、おじいさんが雫と聖司の才能を同等に見てくれていて「聖司だって最初から凄い奴ではなかった」事がわかるシーンでもある
それを無かった事にするのは実写版スタッフが聖司の優位性のみを大事にするあまり最初から聖司を天才扱いする為では?と疑ってしまう
・権利関係でカントリーロードを使えないなら他の洋楽を使えば良いのに「洋楽は中学生にはレベルが高過ぎる」
などといった謎の理由で雫が洋楽の日本語版を作詞するという設定自体が消された
(そもそもジブリ版の雫は中学生にしては知的レベルの高い子だったはず)
そのせいでジブリ版では雫の文才と聖司の技術という2人のクリエイティビティの融合を象徴していたセッションの場面が
実写版だと対称性を失い「プロのチェリストの聖司の演奏で誰でも知ってるような歌を歌うただの素人の雫」という非対称的なシーンになってしまった
・雫の聖司への劣等感にとどめを刺す&聖司のモテ男っぷりと雫への一途さを表現するために突然差し込まれた当て馬女の存在
・ジブリ版に準拠したストーリーなのにジブリ版で描かれた雫のクリエイティブな才能や自立心の強さなどの魅力描写は全て無かった事にされる
そのくせ聖司を魅力的に撮ろうという意図はひしひしと伝わってくる
・聖司の大人っぽさを引き立てるためか雫がやたらと子供っぽいキャラにされてる
そして大人になっても成長が無く幼稚な言動ばかりの駄目女にされている
・自分の生き方すら聖司側のアプローチに委ねてしまう終始受け身で主体性の無い雫
全て「聖司のおかげ」にしようとする制作者の手柄泥棒によるものとしか思えない
・ひたすら延々と「キラキラ輝く華やかな天才の聖司と比べてウジウジ悩む地味で何の取り柄も無い雫」を強調されるが
ジブリ版では2人は対等だしそもそも原作漫画はそんな意図では作られていない
・夢は叶わず仕事も上手くいかず上司からパワハラされ土下座させられ恋敵からもマウントされるなどの散々な目に遭った雫が聖司のプロポーズだけで救われてしまう
←結局雫自身は何の成功体験も得られないままそこで映画が終わる
・聖司側からするとチェリストの夢も叶えた上に好きな女の小説の最初の読者の座も夫の座も全て手に入れるという聖司にとって非常に都合の良いストーリー
対して雫は才能も夢も奪われて唯一与えられたものが聖司の妻の座だけという聖司のためだけに存在する女のような扱いをされている
・とにかく制作側の聖司贔屓とそのための設定変更によって他(特に雫)が割を食ってる上に徹底した雫いじめストーリーが酷すぎた